| 代表:林兼正の簡単なプロフィール |
| 「萬珍樓」の看板が上がったのは明治の25年。横浜が開港してまだ間もない頃です。 当時、街の中に食堂はほんの数軒。しかもそれは、日本で働く中国人労働者のための店だったのです。 長い歴史の中で、明治時代の大火、大正時代の関東大震災、そして昭和の太平洋戦争…そのたびに萬珍樓だけでなく、中華街全体が何度も焼け野原になりましたが、街も萬珍樓もかならず復興してきました。 |
| 戦後の焼け野原…、そこに疎開先の名古屋から戻った父が、テーブル4つだけを置いて、再び、一からレストランを始めたのが、現在の萬珍樓のはじまりです。 その頃の中華街は戦後の復興時期ですから高級店なんてまったくありません。料理はすべて庶民的なものばかり。 「日常的な幸福」を演出する父の背中を見て、私も自然と高校生の頃から父の下で鍋を振っていました。 父の私に対する教育は、ときに包丁が飛んでくるほど厳しいものでしたが、その甲斐あって、30代には料理を教える立場になったのです。 |
文化・時代に合わせ、進化する味 |
| 紆余曲折を経て、今の萬珍樓をつくりあげてきたわけですが、おかげさまで、国内外から認められる中華のブランドを築き上げることができました。 よく「本場の味」と言いますが、萬珍樓でお出しする料理は、「本場の味」ではありません。 強いて言うならば私の味です。 どういうことかというと…厳密に「本場の味」を追求すれば、行き着くのは、現地に住む人々にしか味わうことのできないお袋の味になってしまう。そう私は思っているからです。それはどんな高級店でも出せない味。 それに、美味というのは文化によって異なります。ですから、例えば中国では高級とされる食材が日本でもそうであるとは限らないように、文化の違いに合わせて「進化」させた料理が求められるのです。 |
大きな損失の中で得たもの |
| 2002年に萬珍樓の本店で火事が起きました。
店舗を焼失した時の悔しさは、とても言葉で言いあらわせるものではありません。本気で引退も考えるほどショックでした。 しかし、そんな時に古くからの顧客や世界のあらゆる所から手紙やお金が届き、「続けてほしい」と言われたのです。今まで、お店というのは自分のものだと思っていたのですが、「萬珍樓はお客さまのものだ」と思えるようになりました。 自分の使命は、そのお客様の期待に応えること。だからこそ、死にものぐるいで頑張れているのです。 |